正義の教室

おすすめ本

今回は”答えのない学問”と言われる「哲学」について書かれた、飲茶さんの「正義の教室」をご紹介したいと思います。

「哲学」って親しみがないし、そもそも何の役に立つか分からないと私自身思っていたのですが、本書はそれを小説ばりのストーリーで描き、「哲学」を身近な問題として再認識させてくれる一冊でした。

本書一番の魅力として、ストーリーが仕上がりすぎていて純粋に読み物として面白かったです。

それでいて、ストーリーを楽しむ中で、歴史上の哲学者がどんな時代背景でどんな考えをしてきたのかということが学べるというおすすめ本です。

「哲学」について、つまり正義について考える”意味”ですが、絶対的な正義がないのであれば正義について考える必要はあるのか?という疑問が出てくるかもしれません。

この疑問に対し本書は「我々は正しさから逃れられない。判断を下す時には何らかの正義が必要になるので、自分が何を正しいと思うかについては自覚的でなくてはならない。」と述べています。

今回紹介する正義についてどう思うかを考えた上で、自分ならこう判断するといった読み方をしてもらえたらと思います。

ここでは人間が持つ3つの正義について、それぞれをさらった後、現代の哲学とされている「ポスト構造主義(人々の考えは周囲の環境によって決まる)」という考えを見ていきたいと思います。

人間が持つ3つの正義

【幸福】平等の正義「功利主義」

まずは平等の正義と言われる「功利主義」についてです。

功利とは元々「効能」や「有用」という意味ですが、ここでは「幸福」というニュアンスで用いられています。

つまり「功利主義」の考え方は”物事の正しさを幸福の量によって決めよう”という「最大多数の最大幸福が基礎となっています。

ポイントは「幸福の人数」ではなく「幸福の量」で考えるという点です。

具体例を挙げると、貯金1億円で借金なしの2人(AさんとBさん)、貯金30万円で借金100万円のCさんがいたとします。

現金300万円を3人で分ける場合、どのような分け方が平等でしょうか?それぞれに均等に100万円ずつでしょうか?

功利主義の考え方では、AさんBさんが100万円貰うよりも、Cさんが100万円を貰う方が幸福度が大きいと考えます。

同様にAさんBさんの貰う金額が10万円に減っても、1億円を持つ彼らにとっては大した違いはないので幸福度はほとんど減少しません。

逆にCさんが貰う金額が200万円に増えた場合は、家計に大きなインパクトがあるので幸福度もかなり増加すると考えられます。

結論としては(数字は適当ですが)AさんBさんに10万円を、Cさんに280万円を与えるのが功利主義における平等ということになります。


一方で、功利主義の問題点としては幸福の量を数値化できない点にあります。

先ほどの例でもAさんが100万円をもらった時と10万円をもらった時のそれぞれの幸福量というのは、正確に数字にすることはできません。

そもそも幸福が主観的なものなので、法律のように万民共通のものとして設定できません。

【自由】自由の正義「自由主義」

続いて自由の正義、「自由主義」について見ていきたいと思います。

自由主義はその中でも派閥が非常に多く、一概にどれが本当の自由主義であると述べることが難しいのですが、ここでは本書で「強い自由主義」と呼ばれている、より純粋に自由を突き詰めていった派閥の考え方をご紹介します。

自由主義はその名の通り「自由にやれ。ただし他人の自由を侵害しない限り」がスローガンとなっています。

他人の自由を侵害するという意味で、自由主義でも殺人などは悪とされています。

一方で富裕層への重税などは、貧困層を助けるという目的であっても、富裕層に対する自由の侵害であるとして否定されるものとなっています。

そしてさらに踏み込んだテーマとして「愚行権の是非(人は自分の意志で不幸になる自由があるか?)」を「強い自由主義」は肯定しています。

自殺などの行為は「強い自由主義」では許容されるということです。


自由主義の問題点としては、富豪に対する重税の例にあるように、社会的な弱者が淘汰されてゆき、格差が拡大し続けるという点です。

また麻薬やタバコといった”将来の自分の自由を侵害する行為”の是非について、線引きが難しいという点もあります。

【道徳】宗教の正義「直観主義」

最後は宗教の正義と呼ばれる「直観主義」です。

宗教と言われると、何か特定の神様を信仰していることをイメージしがちですが、ここでの宗教とは神様を信じているどうかに依らず「物質または理性を超えたところにある何かを信じている」ことです。

「功利主義」は人々の幸福の量にフォーカスしていたので、毎日ご飯が食べれる状態は幸福だなとか、行気になった時にすぐに治療してもらえる状態は幸せだななどと考えることができます。

「自由主義」も、個人の自由な行動を尊重するという意味で、重税や規制を緩和するといったアプローチを考えることができます。

一方で「直観主義」はこれらのように考える余地のあるものではありません。

「殺人は善か悪か?」という問いに、胸に手を当てて反射的に「悪だ」と判断する。

その名の通り、人間の良心とでも言うような直感の存在を重要視している考え方です。


直観主義の問題点としては、このような人智を超えた善の存在を、人間は誰も証明できないと言うことです。

実際歴史上、このような人智を超えた善が存在するかについて、賛成派と反対派で2500年以上議論が繰り返されてきましたが、現代においてもその存在は証明されていません。

現代の哲学「ポスト構造主義」

ポスト構造主義とは?

ここまで見てきた様に、人間が持つ正義の判断基準は「平等・自由・直感」と3つに分類できました。

では現代において最も普及している哲学思想は何なのでしょうか?

それは3つのどれでもなく「ポスト構造主義」です。

接頭語の”ポスト”とは〇〇以降という意味なので、「ポスト構造主義」は構造主義以降の考え方と訳せるのですが、どちらもテーマは同じで「人間は、自分の意志で考えて行動しているように見えて、実は、周囲の環境や役割や立場社会の構造によって、無意識にその考えや行動が決定づけられている」という考え方です。

例えば「働くこと」について考えたときに、「働くこと」は”偉いこと”で”生きがい”でもある、「働かないこと」は”不誠実”で”ろくでもない”という意見があったとします。

ポスト構造主義的にはこれは私たちが資本主義という構造(社会システム)の中で生きているからこその発想で、生まれた時から地主として大富豪で、南国でのんびり暮らす人だった場合は、生きている構造(社会システム)が違うので、「働くこと」に対して偉いといった発想は持たない、ということになります。

では構造主義とポスト構造主義は何が違うのでしょうか?

これは構造主義が持っていた「自分たちが生きている社会の構造をきちんと把握して、その構造上の欠陥を見つけ出し、それを修復してもっと豊かで幸せな未来を作り出そう」という希望を、ポスト構造主義が否定しているという点になります。

何とも暗い話ですが、ポスト構造主義的には「作り変えようという意志自体が、とらわれている構造から生み出されたものにすぎず、元の構造を越えたものを作り出すことなんてできない」という考え方をしているとのことです。

現代の社会構造:監視社会

では現代ではどのような構造(社会システム)が支配的なのでしょうか?

上記の「働くこと」の例のように資本主義もひとつの社会システムですが、本書では「監視社会」の例が取り上げられていました。

事の始まりは刑務所の出現であるとされています。

フランスの20世紀の哲学者であるミシェル・フーコーは、刑務所という存在が『正常と異常』の境界線をはっきりとさせたと唱えています。

18世紀ごろまでは犯罪者は公開処刑にされるという文化があり、それには権力者に逆らうとこうなるという見せしめの意味がありました。

一方で19世紀以降は、悪人は人道の名の下に刑務所で生かされ、「正常な人間」になるように再教育されるという変化が起こりました。

これにより『権力に逆らう人間は排除しなくてはならない』から、『人間は誰しも正常に生きなくてはならない』という意識の変化が起きたと言います。

この再教育において有効なのが”監視”です。

再教育の方法として体罰というのもありますが、これは体罰がない環境に移るとまた悪事を働く可能性が高いことが知られています。

しかし『人間は誰しも正常に生きなくてはならない』という意識を刷り込んだ上で”監視”をすることで、相手は他人の目を気にして「正常な人間」として振る舞う様になると言います。


当初は刑務所の中の話だったのですが、現代ではITの発達により、刑務所の中での”監視”を、誰でもいつでもできる社会、すなわち「相互監視社会」になりました。

では、刑務所流の「監視社会」とIT時代の「相互監視社会」で何が違うのでしょうか?

それは司令塔というべき中枢が無くなったことだと言います。

「監視社会」の場合は刑務所が司令塔なので、極端な話、刑務所を壊して仕舞えばその社会システムは無くなります。

一方で「相互監視社会」は、ひとりひとりが監視の役割を担い、壊すべき司令塔がないので「人間は、自分を支配する社会システムを、自らの意志で変えることも抜け出すことも絶対にできない」と言った状況に陥ってしまいました。

つまり「もはや”人間が”「人間にとって正しい社会」を作っているのではなく、”社会が”「社会にとって正しい人間」を作っている」ということです。

私たちにできること

絶望的な話の様になってしまいましたが、では私たちには何ができるのでしょうか?

哲学が答えのない学問と言われているように、ここでも明確な結論はないのですが、本書の主人公は次のように述べています。

万人に見られていなかったとしても、もしくは見られていたとしても、それにかかわりなく自分がやるべきだと思ったことが、自分にとって善いことである。
もし僕が「正しい」「善い」「美しい」と自分で思うものを、他人の顔色を気にして目指さないのだとしたら、、、僕は一体何のために生まれてきたのだろう。

「正義の教室」 第9章 正義の終焉「ポスト構造主義」 より引用

この自分にとって善いモノを判断するために、紹介した3つの哲学や、その思想の中での考え方が活用できるということだと解釈しました。

ふわっとした話になってしまいましたが、簡単な例を挙げると「世間体を気にしてブランドものの高価な腕時計を買ったけど、これって本当に自分が欲しいモノなんだっけ?」と言った疑問を持つことが、人生をより良くする上で哲学が果たせる役割と言えるのかもしれません。

感想

人の価値観は同じではないので、功利主義ってめちゃくちゃ難しいなぁとか、自由主義の実力重視には結構納得だけど、良心のようなものもはたらくので、税金の仕組みも大切だよなぁなど思いながら本書を読み終えました。

ポスト構造主義の、社会にとって正しい人間を社会が作る事は、とてもシンプルでわかりやすかった反面、世間体を完全に無視しろと言われても、人間関係などを考えるとすぐにできることではないので、結局は世間体と個人の倫理観の板挟みになるなと悩ましい気持ちもあります。

ただ本著で新鮮だったのは、確定した正義は正義ではなくなるという点です。ぼんやりとバランスが大切だよなと思っていましたが、それに加えて、二極的に考えず絶えず思考する事。その中で自分の思想を更新していく事が大切なんだなと思えました。

哲学という何とも難しそうな問題を、ここまで身近に考えさせてくれる本書は、入門書として最適の一冊だと思います。興味をお持ちの方は是非ご一読ください!

コメント

タイトルとURLをコピーしました